所長:龍華 明裕の経営理念、弁理士事務所を設立した理由

2002.01.21

会員インタビュー1

龍華明裕氏に聞く
自分にしかできないことを追求する


 本号からシリーズで、活躍中の若手弁理士をインタビュー形式で紹介します。私共インタビュー部会の会員が取材にお伺いしますので、推薦の理由を添えて日本弁理士会「パテント」あてに自薦他薦をお寄せ下さい。また、このシリーズの感想もお聞かせください。

原点は学生時代の塾経営
 東京のオアシス、新宿御苑からほど近いオフィスビルにRYUKA国際特許事務所はある。龍華昭裕氏がここにオフィスを構えたのは1998年のことだ。弁理士会に登録してからわずか5年後のことであり、しかも事務所開設前の3年間は、アメリカの法律事務所で仕事をし、その間に米国弁理士(Agent)の資格も取得している。ホームページには、RYUKA,with Free Vision とある。
 帰国後すぐに独立することに不安はなかったのだろうか。
「学生時代に学習塾をつくった経験から、クライアントが求めているものは何か、自分がどのような形で役に立てるのか、自分にしか提供できないものは何か、ということをきちんと考えていけば、成功できるという自信はありました。」
 氏は、東北大学工学部の学生だった頃、大手の塾をものともせず、学習塾を経営した実績を持っている。しかも、既存の塾より高い授業料を設定した。
「同じ価格帯では、シェアの取り合いになります。ならば、価格は高く設定した方がいい。問題は、その価格に見合った内容を盛り込むことができるかどうかです。」
 事前のリサーチで、普通の塾がやっていること、やっていないことを調べあげた。どこもやっていないこと、自分にしか提供できない内容を、さまざまな要素の一つ一つについて検討し、独自のカリキュラムや指導方法をつくった。生徒たちの勉強に取り組むモチベーションを高める工夫の一例を挙げれば、学生であることを活かして、生徒たちを東北大学の学園祭に連れていったこと。大学生の姿、学園生活を実際に見る機会を得て、生徒たちは自分たちの将来に具体的なヴィジョンを持つことができ、勉強に対する意欲を高めていった。小さなことのようだが、それまでどの塾もやっていなかったことであり、生徒たちのモチベーションの高まりを通じて生徒の能力を高めるという、画期的なプログラムだった。
 教えることのみでなく、生徒の能力を高めるために自分が何をできるか、という発想で始めた塾は2ヵ月で黒字になり、その後は新規入会金のみで広告等の拡大投資費用がまかなえるようになった。
「この塾を運営した時の気持ち、意識は、現在の事務所をやっていく上でも使えるものです。クライアントである企業にとって、知的財産は事業を成功させるための一要素です。事業の成功に貢献するために自分は何ができるか、ということを常に考えています。」

弁理士への道
 氏は東北大学から東京大学博士課程を経てキヤノンに入社し、G4ファクシミリ(ISDN用デジタルファクシミリ)やソフトウェアの開発などに技術者として携わる。
「大きな会社はどう動いているのかを知りたくて、キヤノンに入りました。その頃は、まだ弁理士の仕事については、全く知りませんでした。塾の経験もありましたし、いずれは独立しようと思っていたので、どんな分野がいいかを考えていました。自分が世の中に一番提供できることは何か、という観点で自分を見ていました。」
 いろいろな案があった。例えばダイビングショップの経営、あるいは半導体回路の設計に関わるビジネス。しかし、ダイビングが好きだということから発想したダイビングショップは、自己要求の満足に過ぎない。この仕事は自分以外にもできる人がたくさんいるのだから、自分が本当に世の中の役に立つことにはならない。では、技術開発の経験が役に立つのではないか。回路設計について、その時には誰にも負けない技術と情報を持っていると自負できたが、これはキヤノンの中にいるから可能なことであり、独立したら自分には情報へのアドバンテージはない。2,3年後には、世の中に対して、未来を創るという貢献をできなくなる。
「世の中に貢献し続けられなければビジネスは成功しません。では、それ以外で自分が持っているものは何か、ということを検討しました。」

 キヤノンは技術とブランドの信頼を守る知的財産権についての意識が高く、特許出願の提案書もすべて社内の開発担当者が書く、氏も自らが関わった技術開発について、日本および諸外国への特許出願に発明者として寄与した。そうした経験や、先端技術の特許に関するさまざまな新聞報道などから、特許の世界で先進技術に関わる人材が求められていることを実感していた。これまで学び、開発現場で得た技術を活かせる。また、海外とのビジネスもあり、好きな英語も使えるではないか。 「キヤノンに入社して1年半くらいの時に、一度、弁理士の勉強をしてみたことがあります。この時は3ヵ月くらいやって、勉強をやめてしまいました。まだ特許に対して、技術を独占させるものだという感覚が強かったのです。それでは世の中のためにならない、つまり長期的にはビジネスとして苦しいと思ったからです。4年を過ぎた頃に、特許が多様な企業の結びつきを作り、産業を発展させている、という事に気付きました。特許は世の中に必要なものだと。弁理士になることにしました。」  自分の道は弁理士にあると決めたら即行動、91年にキヤノンを退職して特許事務所に入った。早く経験を積みたかった。

世界を相手にしたい
 93年に弁理士会に登録。しかし、氏にはすでに次のヴィジョンがあった。世界を相手にしたビジネスの展開、というのがテーマだ。そのためには、アメリカで研鑽を積む必要があると考え、氏は、95年、それまで所属していた特許事務所を退職して、アメリカの法律事務所の一員となった。
「英語が好き、 アメリカが好きということもありましたが、世界に対して自分は何ができるのかを知るために、アメリカで特許に関する業務を経験したかったのです。自分が提供できることをクリアに説明できれば、必ず相手に認められます。アメリカの法律事務所に対しても、同じ考え方でアプローチしました。説明できないということは、自分自身に何をやりたい、何ができるかについてアイディアができていないということなのです。」 氏は、最初にコンタクトした事務所に採用された。自身の言葉通り、明解なアピールをされたに違いない。
アメリカの事務所では、テクニカル・コンサルタントとして日本から米国への特許出願や鑑定事件などを扱った。アメリカの事務所での仕事の一例を挙げよう。日本の企業からの依頼でアメリカの特許弁護士が特許侵害の有無に関する鑑定書を作成するという仕事はままあるが、スムースにことが進まない。アメリカの特許弁護士に、対象となる製品等の技術情報や指示が日本企業から正確に伝わらないからである。仕方がないので、アメリカの特許弁護士は、多くの仮定入りの鑑定書を作成するのだという。
 このような状況において、文書のやりとりだけでは埒があかないとみた氏は、頻繁に電話面談を行った。設計者などのキーパーソンと直接やりとりし、法律上の問題点を説明すると共に技術情報の収集と顧客が不安に思う点の把握に努めた。具体的な情報が得られた後は、仕事は格段に速く進み、氏と米国の法律事務所との間の信頼が深まった。 「鑑定、訴訟、出願の処理、契約等の殆どにおいて、日本企業とアメリカの法律事務所との間には、情報の大きな隔たりがあることを実感しました。」
 こうした業務の経験を積みつつ、一方で、氏は、アメリカの弁理士(Patent Agent) 資格を97年に取得している。同じ試験にチャレンジする日本人の仲間を集め、勉強会を作ることにより、必要な情報を集めた。
「弁理士の資格を持つ人ならば、英語さえクリアできれば、Patent Agentの試験はそれほど難しくはないと思います。」
 氏と米国の法律事務所との間には、日本の特許サポートと翻訳に関しては、自分のビジネスをして良いという契約が有った。氏は、Patent Agentの試験に先立ち96年、特許明細書の翻訳会社 RYUKA USA LLC を、アメリカ・バージニア州に設立している。日本企業やワシントン周辺の法律事務所から翻訳の依頼が来るようになり、数名を雇用して翻訳を行った。自身の経験を活かした自分にしかできないビジネスを創造し、先のヴィジョンを描いて行動するという信念が、ここにも見られる。
 ゆくゆくは、このアメリカの会社を日本の事務所と連動させて、サービスを世界に展開する考えだ。

失敗を失敗として残さない
 明確なヴィジョンを描いて事務所を起こし、今や35名ほどの所員を率いる氏につまずきはなかったのだろうか。
「ポジションの違いということに気がつきませんでした。経営について勉強し直しました。」
 キヤノンで一緒に仕事をする仲間は、それがたとえ後輩であっても、仕事のスーパバイザが共通していた。だから自分が積極的に取り組んでいれば、仲間も自然に各々が自分にできることを考え、ポジティブな姿勢を持っていくのがわかった。自分が経営者であっても、自分の意識を同じように所員に伝えられると思っていた。
「自分が、クライアントと所員に対して何を提供できるかを本当に一生懸命に考えてさえいれば、全員が同じ意識を持ち事業が成功すると思っていました。それが、立場が違うと意識が伝搬しないのです。」
同僚に対するのと同じような好感を所員に抱き、期待をかけ、仕事を教えた。それにもかかわらず、所員の目的意識がばらばらになり、一部の所員が早期に事務所を辞めていってしまったのだ。
「教える方は、教えること自体が楽しいのですが、教わっているほうの意識は違ったのです。私は経営者で所員は従業員ですから、そこには目的や意識の相違がある。所員の意識を「要求」から引っ張り上げられない。私は要求のゼロサムゲームを共栄のプラスサムゲームに持っていくことが得意だったんです。例えば2つの企業が争いそうな場合に、企業同士が協力し合えるビジョンを創作してライセンスに導く。でも一番大切な自分の事務所のなかでは、それが全くできなかった。すごく大きなショックでした。」
 複数の経営コンサルタントを雇い、マネージメントについて学び直した。
「この経験が経営を勉強するきっかけになった、と考えれば、自分の中でプラスに転換することができます。つまずきがないわけはないのですが、それを失敗や挫折の経験として残さないようにしています。」
 起こったことは、これが最もよかった、必要なことだったと仮定する。そうすると、それがどのような目的を達成するために必要なことだったのかを見つけられる。そして、それらの目的を達成することで創られる未来をイメージする。新たに見つけたヴィジョンへ向かい始めたとき既に、現実はプラスになる。マイナスをマイナスのまま残さないというこの姿勢こそ、常に前進する秘訣なのだろう。
「私にとって、自分のために一番大切なことは、世の中に対して何を提供できるか、を自分に問い返すことです。そのことで将来の自分をイメージする。」  氏は、所員にも自分のヴィジョンを持って自ら考えることを求めている。自分のできることに意識を集中すると、そこは自由な世界になる、他人の価値観を変えることに意識を集中することは人生の無駄だとも言う。
「他人の価値観は変えられない領域じゃないですか。だから、そこに自分の意識をフォーカスすると、可能性が限られた不自由な世界になってしまう。自分ができること、自分の責任に意識をフォーカスしていくことでしか、未来のヴィジョンは生まれないのです。」

技術コンサルタント集団を目指して
 RYUKA国際特許事務所は、通信、エレクトロニクス、ソフトウェア、光学などを扱っているだけに、クライアントにはベンチャー企業も多い。自らが手がけた特許が、大きく社会を動かしたこともある。例えば、元ハイパーネット社のビジネス・メソッド特許。発明者とのつきあいに始まり、特許戦略の立案、出願、他企業への譲渡、アメリカ企業へのライセンスなどを手掛けたが、権利が移る毎に新たな所有者が顧客になり、特許と事務所の価値がどんどん高く評価されるようになった。この特許の独占的ライセンスを取得したアメリカ企業が競合会社を訴え、最終的には相手方を吸収合併し全米第2位のインターネットプロバイダが誕生した。
「この仕事のダイナミズムを味わいました。ベンチャー企業は他の会社からの紹介で私共の事務所に来ますが、それによって新しい関係が広がっていく、これがうれしいですね。ベンチャーといってもいろいろで、リスクもありますが、仕事として面白い。面白いと感じることは未来の可能性につながっている、だからやります。」
 今後、事務所をクライアントのパートナーとして機能するような、コンサルティング・ファームに育てていきたいと考えている。
「技術と特許を中心とした事業コンサルティングに、仕事の領域を広げたプロフェッショナル集団をイメージしています。言葉や提案を作るのみでなく、現実に、クライアントの事業を成功させていきたい。」
 特許には技術を守るだけでなく、投資家に技術力をアピールするという側面もある。この観点に立てば、投資家に対するプレゼンテーションまで視野に入れなければならない。全世界のキャピタリストとインキュベーターに電話一本でベンチャーを紹介できるネットワークも欲しい。事業契約等では弁護士が関わるほうがクライアントの利益につながる場合もある。もちろん弁理士にしかできない仕事もたくさんある。何がクライアントにとって最適かを見極め、クライアントの成功に最も貢献できる形態に、事務所の事業ドメインを選択し、外部のネットワークを構築していく。
「プロ意識を持つ所員をどれだけ育てられるかということから、成長が始まると思います。規模を大きくすることは最優先事項ではありません。今、80人くらいのコンサルティング・ファームのヴィジョンが描けますけれど、それ以上はクリアに描けない。ヴィジョンが明確に描けないことは目標にしません。そして、その先のヴィジョンを描けるかどうかは、真のプロフェッショナルを育てられるかどうかにかかっています。」

余暇は?
 常に自分にできることを問い続ける氏は、仕事以外のことにさく時間を持っているのだろうか。
「事務所を始めた頃は、ずいぶん詰めて仕事をしていましたが、最近は、もっと遊ばなくちゃと思っています。マネージャーというのは、マネージャー以外の人から離れた状態が続くと彼らを理解できなくなってしまいます。最初は事務所の中でみんなに近寄ろうとしたのですけれど、経営者をいう立場では、同じ視線に立った近寄り方ができない。それで、他のところにもっと人とコンタクトできる場所を作ろうと思いました。来年はセイリングクラブを作ってクルージングにでかけます。」
 ここにも、最初にヴィジョンを描いて動く龍華流が示されている。他に趣味はと尋ねると、ダイビング、スキー、旅行という答えが返ってきた。どれも、出かけなければできない。では、出かけられない時の気分転換は?
「事務所の人たちと、未来を創るためのマネージメントを話すことでしょうか。」
 自分の時間のマネージメントはあまり上手ではないとのこと。自己実現という意味では、仕事と遊びに境界線はないようにお見受けした。


最後に
 RYUKA, with Free Vision 何を提供できるのかというテーマから描いた明解なヴィジョンに基づくビジネス展開が、弁理士というスペシャリストの仕事の幅を大きくふくらませていくことが、明晰なお話をうかがっていて強く伝わってきた。

(取材・構成 藤井久子)